本殿


三間社流造 檜皮葺
慶長10年(1605年)徳川家康四男で清州城城主松平忠吉公の健康を祈願して、妻政子の方の寄進。
蟇股に桃山文化の影響を遺す立体写実的彫刻と室町末期の平面模様が混雑している。
弘仁9年(810年)に神託により、柏樹の地よりこの地に移されたと伝えられる。

楼門


  三間一戸楼門 入母屋造 檜皮葺
天正19年(1591年)豊臣秀吉の寄進、社殿の配置上此の位置は脇門となるが、江戸時代まで、神社東側に天王川が流れ、東約100mの馬場町の大銀杏の所にお旅所があり、この門を通り神輿渡御が行われていたため、神橋を構えあたかも正門の如き壮大な楼門が建立されたと思われる。

南門


南門

 四脚門 檜皮葺

慶長3年(1598年)豊臣秀吉の病気平癒の為、子秀頼寄進と伝えられ、当時の儘か不明であったが、昭和34年の伊勢湾台風で隣接の杉の大木が斃れかかり、解体修理の折、棟木から慶長3年の墨書きが見つかった。

祭文殿


祭文殿

          切妻造 檜皮葺
          文政6年(1823年)の再建

回廊


 切妻造(中殿正面軒唐破風付) 檜皮葺

文政8年(1825年)御師服部乙若太夫の三河・遠江・駿河の檀家より寄進再建。

拝殿


  切妻造妻入 檜皮葺
建立年は不詳であるが、元和5年(1619年)寛永3年(1626年)の修理記録の棟札や、慶安2年(1649年)藩主より材の寄進をもって再建された記録が残されており、本殿の建立に併せ建設されたと思われる。

蕃塀


蕃塀

  切妻造 檜皮葺

尾張造の特色で、正面から大神様に邪気が当らないように造られた。

弥五郎殿社


  一間流造 銅板葺

寛文13年(1673年)の再建
津島神社社地の地主神で、津島神社の社家「紀姓」の姓祖武内宿祢を祀る。
堀田姓は、正応2年(1289年)彌五郎正泰の父之高が、中島郡堀田村を拝領して堀田氏と称したと伝えられる。
堀田彌五郎正泰(後述)は吉野朝廷に仕え、姓祖を祀る此の社を再建、己の佩刀「大原真守作の太刀」(現津島神社社宝 重要文化財)を寄進された事により、彌五郎殿社と称する。式内社「國玉神社」との説も有る。

居森社


  一間流造 銅板葺

須佐之男命幸御魂を祀る。
天正19年(1591年)豊臣秀吉母大政所の寄進。
欽明天皇元年に須佐之男命を最初にお祀りしたと伝えられている処。
命が始めて来臨され、神船を高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来の裔孫と云う老女が、霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われる。
本殿右に須佐之男命和御魂を祀る「疹社」と、左に大日霎貴命を祀る「大日霎社」が鎮座する。

八柱社


       一間流造 銅板葺

   須佐之男命の五男三女の御子神を祀る。
   天之忍穂耳命・天之菩卑命・天津日子根命・活津彦根命・熊野樟毘命
   多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐津比売命
   元「八王子社」と称し、寛文年間までは本殿相殿に祀られていた。

荒御魂社


  一間流造 銅板葺

佐之男命荒御魂を祀る。
元は八岐大蛇の霊を祀る「蛇毒神社」と称された。
社殿は、華麗な彫刻と極彩色で飾られ、屋根は津島神社独特の古い形式を遺す美しい社殿である。

柏樹社


須佐之男命奇御魂を祀る。

元は「柏宮」・「柏社」と云い、神託により天平元年(757年)居森の地よりを此処に移したと伝えられる。
社の後ろに古柏樹一株が生えていたところよりその名がある。

和魂社


  須佐之男命和御魂を祀る。

元は蘇民将来を祀る「蘇民社」と称され、姥が森(現海部郡佐織町町方新田)に鎮座されていたのを瑞垣内に移したと伝えられる。
正月4日に祭礼を斎行し、本社拝殿前に「茅の輪」を立て、一年の無病息災を願い輪くぐりを行う。

稲荷社


  宇迦之御魂神を祀る。

京都伏見より勧進し、宝暦10年(1760年)の造営



菅原社


菅原道真公を祀る。
元神主氷室家の邸内社で、京都北野天満宮より勧請して、正保年間に創立されたと伝えられる。

照魂社


  戦没者の御魂1,170柱

昭和26年御垣内に津島出身の英霊658柱を祀る祖霊社を建立したのが始まりで、昭和29年に現地に移され、照魂社と改称された。


東手水舎


本殿 拝殿 楼門 回廊 弥五郎殿社 居森社 稲荷社 八柱社 荒御魂社 柏樹社 和魂社 菅原社 照魂社 参集所 東手水舎

「本殿」・「祭文殿」・「拝殿」が左右対称に一直線に配され、「南門」との間に「蕃塀」が有り、広く尾張地域の神社の特色である。
熱田神宮も、明治に「神明造」に建て替えられるまでは「尾張造」であった。
現在「尾張造」が明確に観られるところは少なくなっている。

尾張造

正門は拝殿正面にあります南門ですが、楼門は脇門です。
どうして脇門の方が立派なのかは前記の楼門の説明をご覧下さい。

津島神社の注連縄は、穂先が向かって右側になって、普通と逆むきになっていますが、これには、様々な意見があります。
  一つは、稲の根元、穂先どちらを上位とするかの考え方の違い。
  一つは、現在一般的に右が上位とされていますが、時代によって左右の上下位が変わっている。
又、ひな人形内裏様の飾り方が、関東と関西で違う様にどちらも間違いではないのです。

建速須佐之男命を祀る「本社」、荒御霊を祀る「荒御霊社」、和御魂を祀る「和魂社」、奇御霊を祀る「柏樹社」、幸御霊を祀る「居森社」、和御霊を祀る「疹社」と境内に六社のご祭神をお祀りしていることは大変珍しいのです。
古く日本では、人は、「荒霊(あらみたま)・和霊(にぎみたま)・幸霊(さちみたま)・奇霊(くしみたま)」と云う四つの魂を持ち、「勇・親・愛・智」の機能を「直霊(なおび)」が司っていると考えられていました。
神も同じような機能を持つと考えられ、伊勢神宮を始め「荒霊」を祀る神社は多いのですが、津島神社にこれだけ多くの御祭神を祀られているのは、最初に居森社に須佐之男命をお祀りした後、柏樹社の処に移し祀った後、現在の処に移し祀りいたと伝えれ、以前の斎場にも社殿を祀ったからです。
その理由は、御祭神建速須佐之男命は大変気性の荒い神様ですので、当時の人々は古いお社を取り壊さずに残してお祀りしたと思われます。

廻廊に十個の燈籠が懸っています。この内の七個は、寛永15年(1638年)尾張藩主松平義直の命により奉納され、「三つ葉葵」の紋章が打ち出されています。
寛政3年(1791年)本殿の修理に伴い、燈籠の修理も行われています。
他の三個は、文化2年(1805年)の銘が有り、「木瓜紋」が着けられています。
天保15年(1844年)に発行された「尾張名所図会」には廻廊両側に描かれており、その後廻廊に付変えられ増やされたたと思われます。

菅原社境内に、船の形をした石等三つの石があります。
これは「尾張名所図会」にも描かれており、磐座ではないかと思われます。

弥五郎殿社拝殿と石燈籠には、三本の木を描いた紋章が有りますが、御祭神、津島神社社家を含め関係者にはこの紋章が見当たらないので、寛文13年(1673年)に寄進した、右馬太夫の檀那家の紋章ではないかと思われます。
この紋章は、「三本杉」とも言われますが、若干違う様で何紋か不明です。

弥五郎殿社の左手に、大きな石燈籠が有り、台座と胴がずれています。
これは、明治24年の濃尾大地震によって動いたもので、元に戻そうとしても戻らなかったそうです。
この震災では、社務所・絵馬堂・瑞垣・神庫が倒壊、摂社和御霊社・末社米社始め十三社が損傷しましたが、本殿・楼門始め多くの社殿には被害は有りませんでした。

本殿裏にコンクリートが敷き詰められた処が有ります。
これは御神体を納める為、太平洋戦争時に造られた防空壕ですが、実際には使われることは無く、安全を保持する為現在は入口は塞がれています。